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6.山口県周辺出土の銭貨


和同開珎(新和同)
下関市長門鋳銭所跡(推定)
 和同開珎(画像は新和同)は奈良時代の和銅元(708)年に奈良朝廷がはじめて造った銅貨として有名です。1998年、奈良県飛鳥池遺跡でそれを遡る富本銭の鋳造跡が新たに確認されましたが、古銭研究家の間ではずいぶん前から政府発行以前の貨幣として、すでに古和銅銭や無文銀銭などの存在が知られていました。天武十二(684)年の「これらの後は必ず銅銭を用い、銀銭を用いてはならない」という詔からも、奈良時代以前の貨幣の存在をうかがわせます。
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埋納銭
山口市興隆寺跡
 1972(昭和47)年、山口市大内御堀における氷上山興隆寺旧境内の豚舎造成中に、地表下約1mの位置から備前焼大甕が出土しました。甕の内部からは合計294s、推定8万9千枚に達する、全国的にみても膨大な数の銅銭が出土しました。現時点では明代の永楽通寶(1408年初鋳)が最も多く、最新銭は李朝の朝鮮通寶(1423年初鋳)が該当します。16世紀までに対明貿易で巨利を得た大内氏一族の寄進による可能性が高いと考えられます。
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開元通寶
山口市興隆寺跡
 西暦621(武徳四)年、唐の高祖が開元通寶(開通元寶)を初鋳しました。銭文は初鋳当初は回読でしたが、のち対読が一般化されたといいます。10文で重さ1両、1000文にして重さ6斤4両と定められていました。鋳造期間が唐代280年余におよび、かつ中国各地で鋳られたため、様々な銭種がみられます。ちなみに量目の二銖四累(3.75gのこと)は以後、中国銭貨の重量目安ともなりました。唐代の鋳造にもかかわらず、わが国における中世埋納銭に占める組成比が、上位10位以内に入る場合が多いとされます。
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宋通元寶
山口市興隆寺跡
 北宋の西暦960(建隆元)年初鋳とされます。銭文については一般に対読ではなく、回読が正しいとされます。背(裏面)に星や甲文をもつ例もあります。甲文とは、直線一文字状のレリーフ意匠のことをいいます。宋通元寶のほか、開元通寶(唐、621年初鋳)、周通元寶(後周、955年初鋳)などにも甲文がうかがわれます。
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太平通寶
山口市興隆寺跡
 北宋の976(太平興国元)年に初鋳されました。無背を原則としますが、稀に甲文(横一文字状のレリーフ)、月文や広穿などが認められます。
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淳化元寳(真書)
山口市興隆寺跡
 北宋、太宗の990(淳化元)年に初鋳されました。書体が真書、行書、草書の三種に分かれるのは、本例が初見です。画像は真書の例です。比較的厚手です。基本的に無背ですが、山口県防府市に所在する下右田遺跡では、背星の事例が出土しています。
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淳化元寳(草書)
山口市興隆寺跡
 同じく北宋、太宗の990(淳化元)年に初鋳されました。画像は草書体の事例です。真、行、草三種の検出頻度は概ね同等とされます。
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至道元寳(真書)
山口市興隆寺跡
 北宋の995(至道元)年に初鋳されました。先の淳化元寳と同様、銭文書体に真、行、草の三種が確認されています。画像は真書の例です。
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至道元寳(草書)
山口市興隆寺跡
 同じく北宋の995(至道元)年初鋳の至道元寳のうち草書体の資料です。書体三種のなかでは、草書体の検出頻度がやや低い傾向にあるとされています。
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至道元寳(行書)
山口市興隆寺跡
 同じく北宋の995(至道元)年初鋳の至道元寳のなかの、行書体の例です。
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